19世紀末アール・ヌーボーの華 アルフォンス・ミュシャってどんな人?
もう随分と前のことですが、初めてミュシャのポスターを見た時の事は今でも心に残っています。
女性の美しさが神々しいまでに描かれ、優雅な曲線と、繊細な色使いがあまりにも素敵で、しばらくの間じっと魅入っていたこと。
少なくとも20年以上の歳月がたった今も、ミュシャの作品にふれる度に、その時の感情や空気感までも蘇ってくるのです。
アルフォンス・ミュシャとはどんな人物だったのでしょうか?
自画像 1888年
アルフォンス・ミュシャとは?
アール・ヌーボーを代表する芸術家
アルフォンス・ミュシャは19世紀末から20世紀初頭にかけて主にフランスで活躍した芸術家です。
世紀末に興った芸術運動、アール・ヌーボーの発展に大きく影響を与えた人物として知られています。
ミュシャの代表作といえば、星や宝石、花、季節などを女性の姿に喩えて描いたポスターなどの作品。繊細な色使いと、華やかな作風が魅力です。
ミュシャの作風に触発された多くのデザイナーたちは、工芸や建築などにミュシャのスタイルを取り入れ、やがてアールヌーボーという一大ムーブメントを巻き起こしました。
「ジスモンダ」1895年
ミュシャの生涯
アール・ヌーボーの全盛期へ
アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)は1860年7月24日、オーストリア帝国領モラヴィア(チェコ共和国)に生まれました。子供の頃から絵を得意とし、19歳でウィーンに行き働きながら夜間のデッサン学校に通い始めます。その後パトロンを得てミュンヘン、パリへと渡り絵を学びました。
なかなか才能を発揮する機会に恵まれなかったミュシャは、パリ時代の当初、雑誌の挿絵を描きながらなんとか生計を立てていました。次第に実力を認められ、ミュシャは本の挿絵家として活躍するようになります。
ミュシャの名声を高めたのは、女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターを手がけるという幸運によるものでした。この時ミュシャは34歳。1894年のクリスマスに急遽ポスターを発注する事になったサラ・ベルナールですが、主な画家たちは休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャにポスター製作の依頼が舞い込んできたのです。
このポスターによって、ミュシャは一夜にして成功をおさめます。優美で装飾的な作風は多くの人を魅了し、「ジスモンダ」のポスターは夜毎に剥がされて持ち去られるほどでした。こうしてミュシャはアール・ヌーボーの寵児として活躍することになったのです。
ミュシャの作風を気に入ったサラ・ベルナールはミュシャと6年間の契約を結び、数多くのポスターだけでなく、衣装やジュエリーのデザインも依頼しました。
スラヴ叙事詩「スラヴ民族の神格化」1926年
アール・ヌーボーの寵児から一転、祖国への愛を貫いたミュシャの晩年
美しい女性像や流れるように美しい植物文様など、華やかで洗練された作風で名を馳せたミュシャですが、故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族のアイデンティティをテーマにした作品も数多く残しています。
1908年、アメリカでボストン交響曲団によるスメタナの「わが祖国」を聴き感銘したミュシャは、強国に支配され続けてきたチェコ国民の希望のため、スラブ民族の歴史や文化を絵画によって伝えていくことを決意します。
1910年、50歳になったミュシャは故国であるチェコに帰国します。プラハ近郊にアトリエを借り、晩年の17年間を捧げた渾身の大作「スラヴ叙事詩」の作成に取り掛かったのです。
ミュシャは「スラブ叙事詩」以外にも、チェコ人の愛国心を喚起する多くの作品を手がけています。オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、紙幣や、切手、国章などのデザインを手がけましたが、これらは無償で請け負ったといいます。
1939年、ナチスドイツによってチェコスロバキア共和国は解体されてしまいます。ミュシャの絵画が愛国心を刺激するという理由から、ミュシャは逮捕され厳しい尋問を受けます。
その後ミュシャは釈放されたものの、体調を崩しその4ヶ月後に最期を迎えます。 1939年7月14日、78年の生涯でした。
ミュシャの作品
アール・ヌーボーの代表作から生涯をかけたテーマまで
「黄道12宮」1897年
カレンダーのために描かれたもので、ミュシャの人気をさらに高めるきっかけとなった作品です。
「四芸術」1898年
左から「詩」「ダンス」「絵画」「音楽」
「四つの花」1897年
左から「カーネーション」「ユリ」「バラ」「アイリス」
ミュシャの描く女性美は19世紀後半に描かれた、これらの連作の中で花開きました。
「蛇のブレスレットと指輪」1899年
金、エナメル、オパール、ダイヤモンド
サラ・ベルナールのためにデザインされたジュエリーです。
ミュシャは宝飾デザインでもその才能を発揮し、ミュシャがデザインしたジュエリーは1900年のパリ万博で展示されました。
「スラブ叙事詩」原故郷のスラヴ民族 1912年
「スラブ叙事詩」スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラディナ会の誓い 1926年(未完成)
およそ縦6メートル、横8メートルの大きさで描かれた20点の油彩画によって、スラヴ民族の苦難や栄光の歴史を描いた壮大な作品。「スラブ叙事詩」はまさにミュシャの集大成です。
華やかな世界に生きながらも常に自国への想いを抱き、心に葛藤を抱えていたのであろうミュシャ。その後のチェコスロバキアの独立を知らぬままに亡くなってしまいましたが、彼の残した作品は今なおチェコの人々の心に希望を与え続けていることでしょう。
(デザイナー 本橋)
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