最近、私は、自分自身の思考が立体化しているのではないかと感じることが多くなりました。
どんな感じかというと、自分自身がイメージしたものや形、言葉が、無駄な部分をそぎ落とされて、浮き上がってくる感じ。
言葉で何かを表現するときに、その様子がありありとイメージできる感じ。
例えば、
<このダイヤモンドの輝きは、まるで透明な冷たい水を一瞬にして凍らせてしまったかのよう>
そんな風に言葉に出すとき、頭の中にその映像がしっかりと描かれていて、頭の中に描かれたその映像をそのままに、自分の言葉で話している感じがするのです。
最近、よく
<内藤さんの話を聞くと、映像が頭に浮かびます>
と言われることが多くなりました。
自分自身の頭に浮かぶ映像をそのままに、自分の言葉で表現できるようになると同時に、それは周りの人の頭の中にも、同じ映像を送ることができるようになるのかもしれない。
そんな風に感じます。
明確にイメージするということは、無駄な思考をそぎ落ととすことなんんだと、改めて感じています。
けれどそれは、自分が、そぎ落とそうとするのではなくて、自然にそぎ落とされていく感じ。
思考が立体化する。
絵に描いたり、文章にしたり、表現することは、様々な方法があるのだけれど、2次元の平面になっている。
けれど、そこに<感情>が入ると、それが立体化する。
本を読んでいても、文字を追っていて、そのストーリーを楽しみながら読み進めていても、その風景や情景が浮かぶものと浮かばないものがある。
そのストーリーから放たれる感情が、押し寄せるように、私自身の頭の中に映像を結ぶ時、
私はそのストーリーに大きく心揺さぶられ、感動し、涙をこぼし、にやにやと笑い、大きな一つの塊ができあがるのを感じます。
その塊は、記憶、ということになるのでしょう。
その本のストーリーや登場人物など、時間がたつと忘れてしまうのですが、その本が私の頭に結んだ映像と、感情は、忘れられずに記憶として心に残る。
洗練された文字は、研ぎ澄まされた思考は、記憶に残る映像を作り上げるのだと。
日本には素晴らしい研ぎ澄まされた言葉文学があります。
俳句や短歌。
短い、シンプルな言葉、単語が、風景を思い起こさせ、香りを放ち、音を立てる。
秀作というのは、まさに言葉が立体化されているのだと感じます。
何十年も前に、朝日新聞の俳句投稿で呼んだ俳句。
冬の玄関で花瓶の水がかちりと音を立てた
というものだったのだけれど、冬の寒さ、玄関先の冷え込んだ空気、花瓶の底で水がかちりと凍るその瞬間。
その音が聞こえたという静寂。
何から何まで映像が浮かび、ひどく感動したことを覚えています。
思考が立体化する。
これは、なんだかとっても素晴らしいことのように感じます。
そんなことに気がつけた今の私は、なんだかついているなと、感じてしまうのです。
思考の立体化は、感情を豊かにしながら、思考をシンプルにしてくれる。
なんだかおもしろくなてきました、物事を考えるということが。
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